2026年7月のクレープストーリー (毎水曜更新)
コーヒーにミルクって入れる?
第一話
ケトルが儀式の開始を知らせていた。
ペーパーフィルターの端を丁寧に折り、ドリッパーにセットする。
リンスのお湯をペーパーにかけると、フィルターがドリッパーにピタリと貼り付いた。
たった今挽いたばかりの豆を平すようにセットする。
少し温度の下がった湯で粉を湿らせる。
水分を含んだ粉は、まるで呼吸を始めたようにゆっくりと膨らんだ。
立ち上る香りは魅惑的で情熱的な女性を脳内に描き出す。
覚醒と微睡の不思議な感覚の中で萎み出した粉に再び湯を注ぐ。
ドリッパーから抽出される魅惑色の雫。
最後に一雫が落ちたデキャンタからドリッパーを外す。
狙った通りの色を確認しカップに注ぐ。
真っ白いカップに映える琥珀色。
この世の中でもひときわ美しいと思わせるコントラスト。
大人の味わいだった。
僕はコーヒーはブラック一択だ。
こんなに美しく香り高い飲み物にミルクやシュガーを入れてしまうことなど、その魅力を半減どころか無に返す行為だと思っている。
「おはよう。今日は天気が良いわよ」
通知音が鳴り、スマホを見ると彼女からLINEが入っていた。
彼女は僕の人生の中で初めて彼女と呼べる存在だ。
付き合い始めて二ヶ月。
お互い恋のイロハも知らずプラトニックなデートを重ねていたある日。
「今度家に遊びに来ないか?」
僕は思い切って彼女を誘った。
彼女は少し考えた後、小さく頷いた。
彼女が家に遊びに来る前日。
僕は行きつけのロースターに行きコーヒー豆を買った。
二人とも初めての大人への入り口。
それに相応しく少しビターな深煎り豆を選んだ。
当日、彼女が家に来た。
少し緊張しているのが手に取るようにわかる。
ソファーに座ったまま身じろぎせずちょこんと座っている。
緊張を解そうと僕はコーヒーを淹れにキッチンに立つ。
深煎りのビターな香りが部屋に広がる。
僕はそのエキゾチックな香りに、落ち着くどころか興奮がさらに高まった。
彼女はどうだろう?
僕は真っ白なカップにコーヒーを注ぎ彼女の前に置いた。
外で会うのとは違う、ぎこちない時間が流れる。
見ると、せっかく淹れたコーヒーもすっかり冷めてしまった。
「淹れなおしてくるよ」
そういってカップを下げようとすると彼女は
「いいの。私、猫舌だから…それより、ミルクある?」
「うん…えっ?!」
僕は耳を疑った。
「コーヒーにミルクを入れるの?」
彼女はなぜそんなことを聞くの?というキョトンとした顔で僕を見ている。
「ええ…シュガーも入れたいところだけど冷めてしまっているから溶けないわ」
ーええっ!シュガーも?!ー
もはや言葉にならない。
それでも彼女の頼みだ。
僕は冷蔵庫からミルクを取り出し、何か入れるものを探す。
普段からミルクなど入れないものだからピッチャーなどあるはずもない。
牛乳パックを持ったままオロオロしていると彼女が
「そのままでいいわよ。」
そのまま入れれば済む。
当然と言えば当然だが、それすら僕には許せないことのように思えた。
自分で入れてくれと彼女にパックを渡す。
崇高なブラックコーヒーに自らミルクを注ぐなど僕にはできない。
すると彼女は何も躊躇することななくカップにミルクを注いだ。
冷めてなお美しい琥珀色が白濁してゆくのを見て悲しくなった。
僕は途端に無口になった。
彼女も僕の態度の急変に戸惑いながらも、ソファーに座ってミルクコーヒーを飲んでいた。
時間だけが過ぎていった。
窓から西日が差し込む頃には二人ともそんな気分などとうに薄れ、白けた空気が部屋を包んでいた。
「私…帰るね。」
そう言って彼女がソファーから立ちあがる。
僕も立ち上がり玄関まで見送る。
彼女が部屋のドアを押し、出ていった。
鉄扉の閉まる音だけが虚しく廊下に響いた。
先程まで彼女が飲んでいたカップの底には、白く濁ったコーヒーが残っていた。
第二話
雨に煙る夜更けのダイナー。
ずぶ濡れのレインコートの男が店に入ってきて、ウェイトレスにコーヒーを注文する。
コートも脱がず濡れたままシートに座り、サーバーからカップに注がれたコーヒーをそのまま片手で口へ運ぶ。
そしておもむろにタバコに火をつけ、物憂げに煙を吐き出す。
ミルクもシュガーも画面には映らない。
映画やドラマに出てくるかっこいい男の世界にはミルクやシュガーも存在しない。
僕にはそれが当たり前だと思っていた。
彼女が僕の家に来てから一週間が過ぎていた。
その間、LINEなどのやり取りは全くしていなかった。
彼女が最初の恋人だったため、一般的な恋人同士がどれくらいLINEのやり取りをしているのか全くわからなかった。
だから、特に連絡を取ることもなく放っておいた。
しかし流石に気になったので、そのあたりに詳しそうな友人に聞いてみることにした。
「お前ヤバいぞ!女の子はLINEがないと自分は放って置かれているか、最悪もう別れてると思われるぞ。一週間もLINEしていないなんて、そろそろヤバい領域に入ってきてるぜ。なんか送れよ!」
その友人にせっつかれたが、送る話題が思いつかない。
そう打ち明けると、
「なんだっていいんだよ!とりあえずーおはようーだけでも送ってみたら?」
そうは言われても不自然だ。
連絡事項もないのに何を送ればいいんだ?
「お前、LINEってのはな、連絡するだけのツールじゃないんだぜ?コミュニケーションツールなんだから、コミュニケーション取れよ。」
僕が困っていると、
「そうだ!コーヒーのことで気に入らないことがあるんだろ?そしたら他に彼女がどんなものを好きなのか知ることから始めたら?一緒に喫茶店に行って探るんだよ。何かしら注文するだろ?そこから彼女の好きなものを知っていくんだよ。お前の逆鱗に触れないものだってあるよ。もしかしたらコーヒーも好きかもしれない。」
言われてみれば一理ある。
彼女のことはまだ、ほぼ知らないに等しい。
あのときは、一生懸命淹れたコーヒーにミルクを入れられたことが、ただただショックだった。
彼女自体を嫌ったわけじゃない。
彼女の好きなものを知れば何かが変わるかもしれない。
そう思ったら俄然やる気が出てきた。
「気になった喫茶店があるんだ。今度一緒に行かない?」
彼女にLINEを送った。