080-4120-9002
coeurcrepe 

2026年8月のクレープストーリー (毎水曜更新)

【8月のクレープストーリー】

風が運んできた夏

 

第一話

 ランニングシューズの靴紐を結び家を出た。

路地を曲がり大通りに出る。

車道の信号が青に変わり、静かだった通りに車の走行音が響く。

私は赤に変わった歩道側の信号に足を止める。

 

午前5時。

私は車の波が途切れると、車道の向こうに見えている神社に手を合わせる。

集中していると車の走行音がスッと消えた。

目を開けると今度は歩道側の信号が青にかわっていた。

私はスマートウォッチの一時停止を解除する。

ピッという音と共に規則正しいストライドが再び刻まれてゆく。

 

「はあ…はあ…」

緩やかな勾配を走って登ってゆく。

信号で足止めを喰っている車の波より速く頂上に着きたい。

人も車もいない橋の上。

寂しさが心地良い、まだ明けきらない町の風景。

川風が優しく吹き上げてくる道を、橋の下まで一気に駆け降りよう。

ポニーテールが左右に激しく揺れる。

土手に降りる道を左に入ると、遥か川向こうに空中都市のようなビル群がゆらめいていた。

 

私は温まった体にエンジンをかけスピードを上げる。

朝日が正面に昇り、辺りを金色に染め出した。

川面に太陽が反射して光の粒をキラキラ煌めかせている。

私はあまりの美しさに立ち止まりスマホのレンズを向ける。

逆光なので上手く撮れず、数枚シャッターを切った。

すると突然、朝日の中から自転車が飛び出してきた。

シャッターと格闘していて気が付かなかったが「シャーッ」という音に目を上げた瞬間、光線がもろに目に入り視界を幻惑した。

そのため自転車の接近に気が付かなかった。

「危ない!」

そう思ったが、自転車は思ったよりゆっくり近づいてくる。

向こうからは私のことがはっきり見えていたのでスピードを落としたのだろう。

しかし私が気がついた時にはほぼ目の前だった。

 

私は、突然のことだったのでスマホを構えたままになった。

あちらも撮られていることに気がついたのか、少し顔を伏せた。

私は咄嗟にスマホを下げた。

 

すれ違う時に自転車の男性が

「暑ちい…」

と呟いた。

その乾いているのに熱を帯びた声がハッキリと私の耳に残った。

 

振り返ると、黄色いサイクルジャージに黒いヘルメット、黒いスポーツサイクルが遠ざかってゆく。

私は踵を返しそのまま走り続ける。

折り返しの橋を登る足が、さっきより軽く感じる。

橋を上り切ると広がる東京の街。

吹き上げてくる風が揚力を生むように、私の体をふわりと軽やかにさせる。

まるで東京の街へ飛び込んでゆくような感覚。

 

軽やかになる気がするのは風や景色のせいだけではないとなんとなく感じていた。

 

 いつもと変わらないランニングコースなのに、サイクリストが目につくようになった。

先日の一件があったせいでもあるが、颯爽と走り抜ける姿に憧れが生まれたこともある。

それまでもたくさんのライダーを見てきたはずだが…。

強いていえばサイクリストにあまり良い印象は持っていなかった。

土手には、ランナーやサイクリスト以外にも様々な人々がいる。

犬の散歩をする人、草に座って川面を眺めている人、通勤や通学の人。

そんな中をものすごいスピードで走り抜けていくスポーツサイクルに、ヒヤッとした経験は多い。

中にはすれ違いざまに「邪魔だ!」と罵声を浴びせる人もいた。

だからスポーツサイクルが近づいてくると敢えて距離を置くようになった。

 

しかし、いつからかサイクリストに対する私の見方が変わった。

それは私が早朝のランニングに切り替えたことも関係していた。

私がどうというより、早朝から練習をしている人は総じて意識が高い。

だから、ランニングにしてもサイクリングにしても傍若無人な人はいないのだ。

早朝に走る人たちは不思議と周囲への気遣いが自然だった。

ランナーを追い抜くときも十分な間隔を空け、危険を感じたことは一度もない。

そのような紳士的な態度にも好感が持てた。

 

その朝も、まだ5時台なのに日差しが容赦なく照りつけ、気温をぐんぐん上昇させていた。

私は暑さの中、いつものように土手の道を走っていた。

ペースを下げても歩かないように一歩ずつ歩を進める。

すると背後から「シャーッ」と自転車の走行音が聞こえてきた。

私は反射的に振り向く。

すると紫のジャージを着たサイクリストが私を追い抜いていった。

しばらく走ると再び「シャーッ」と走行音が響く。

今度はさっきより少し大きい。

今度は振り向かずそのまま走り続ける。

すると黄色いサイクルジャージを着た集団が私を追い抜く。

四人の隊列が等間隔で滑るように走り抜ける。

ーこの前の…。

確かに先日、私の横をすり抜けていった男性の着ていたジャージと同じだった。

スピードが早く、あっという間に点になったと思うと今度は逆にだんだん大きくなる。

折り返しでこちらに戻って来たのだ。

点滅する四つのライトが向かってくる。

鋭く気持ちの良い走行音に、私は嬉しくなり大きく手を振った。

すると先頭のライダーが気がつき大きく手を振り返した。

後に続くライダーも順に手を振り返す。

そして最後尾のライダーが手を振る頃にはちょうど私とすれ違う位置に来ていた。

 

最後尾のライダーは手を振らず、私に微笑みかけて片手をあげて応えた。

 

ーこの人だわ。この前の人。

 

私はその姿をしっかりと瞼に焼き付けた。

 

AM4:57

5時に掛けたアラームより早く目が覚めた。

私は少し憂鬱な気持ちでベッドを抜けキッチンに立った。

カウンターの向こうに夜明けの街が見える。

それまでより幾分、空がピンクがかっていることに気がつく。

季節は秋へ進もうとしていた。

 

私は昨夜のことを思い出し、気持ちがずしりと重くなる。

昨夜、私は大学時代の友人たちとの飲み会に参加していた。

私が属していたグループは社会人になっても頻繁に飲み会を催していた。

最初は学生時代の延長だと思っていた。

しかし、妙に結束が固かった。

ーいつまでも友達でいましょうー

そんな空気がグループ全体を包み、私は誘いを断りにくくなっていた。

その日、急遽飲み会の誘いが来た時は、丁度推しのライブがある日だった。

私は半年も前にチケットを取っており当日を楽しみにしていた。

なので思い切ってー今日は行けないーとグループLINEに返信していた。

ーそれじゃ仕方ないね。残念。ー

そう返信が来た。

ライブは楽しかった。

なにしろ半年待ったのだ。

私は当日の様子をSNSにアップした。

すると仲間のグループLINEにメッセージが届いた。

ー私たちの予定より大事な用事かと思ったらライブだったんだね。楽しかったみたいで良かったねー

すると別の友人が

ー私たちと飲むより楽しかったみたいだねー

などと次々にメッセージが届いた。

表面的にはー良かったねーと言っている。

しかし、明らかに嫌味な内容だった。

私は息苦しさを覚えた。

ーごめんなさい。半年前からチケットを取っていたからどうしても行きたかったんだー

しかし、

ーいいのよ、次は大丈夫でしょう?ー

私は言葉を失った。

それからの私は以前にも増して誘いを断れなくなった。

ひっきりなしに流れてくるグループLINEの通知。

画面が光るたび、ため息をつくようになった。

 

日に日に落ち込む私を見かねて、職場の友人が皇居のナイトランニングに誘ってくれた。

煌めくビルの夜景と、運動して汗をかく爽快さ。

私は走る楽しさを知った。

会社の友人は私が疲れている時は無理に誘いはしないし、私が参加したいときだけ走ることができた。

ナイトランニングと併せて私は早朝ランニングを始めた。

スマホも自宅に置いて、誰にも邪魔されず朝日を浴びて走る。

私は自由を満喫していた。

そんなある日、ランニングステーションにラン仲間と向かっているとスマホの通知音が鳴った。

学生時代の仲間からの急な誘いだった。

私はどうしようか迷った。

しかしスマホを困った顔で覗き込んでいる私に、ランニング仲間が声をかける。

「行ってきたら?なんだか大事そうだし、ランニングはいつでも出来るから」

思いがけない言葉に驚く。

思わず顔を見る。

彼女はニコニコ笑って送り出してくれた。

 

店に着くとすでにメンバーは集まっていた。

いつもと変わりない飲み会。

当たり障りない会話で時が過ぎてゆく。

時計を見ると21時を回るところだった。

明日の朝ランが頭をよぎる。

ーもう帰らないと明日が辛いわー

私は幹事役に帰ると告げ、自分の分の会計をお願いする。

すると突然幹事役が声を上げた。

「ねえ。この子帰るってよ!」

皆が一斉に静まる。

「ねえ、最近どうしたの?なんか足並み乱すよね?」

「最近、付き合い悪くなったよね」

「こうやってみんな仲良く飲んでいるのにさ。最後まで付き合うのが仲間ってものでしょう?」

その言葉を聞いて愕然とする。

「私、明日早いんだ。だから帰るっていうだけなんだけど。」

「みんないつも一緒だけど、予定とかどうしてるの?」

私は素朴な疑問をぶつけた。

しかし、皆、返事はなく下を向いて俯いている。

重い空気の中、リーダーの子が声を上げる。

「私たちより自分の予定が大事なんだったら、もう参加しなくていいんじゃない?」

言われなくてもそうする。

私は出口に向かって歩きだした。

 

 私はランニングシューズを履き、玄関を出る。

スマートウォッチをスタートさせ一気に駆け出す。

橋の勾配も勢いよく駆け上り、下りも減速せず走り抜ける。

いつもの土手沿いの道。

息が切れるが止まりたくない。

止まれば昨日が追いついてきそうな気がした。

 

苦しくても走った。

すると、道の向こうから白い光の点滅が近づいてくる。

縦に連なる二つの光。

その一つに黄色が混じる。

ー彼だ…。

苦しさの中で私は軽く右手を上げた。

すれ違う時、彼が人差し指と中指を揃えて額に当て、私に向かってサッと振った。

お互い自然と笑みが溢れる。

コンマ数秒のふれあい。

ただそれだけのことなのに胸の奥が温かくなる。

私はそのまま走り続ける。

今度は緩やかで軽いストライドを踏みながら…。

 

川沿いの少し広くなっている広場で私は足を止めた。

息が弾んで汗が流れる。

川面はどこまでも静かで、朝霧がゆっくり流れてゆく。

河口には朝日が昇りその先の海を明るく照らしていた。

ー明日もまた走ろう。そしてこれを当たり前にするのだ。

そう思える自分が嬉しかった。

 

それから度々彼とすれ違った。

挨拶は日によってしたりしなかったり…。

お互い練習に集中したい時はオーラを感じるし、余裕がある時は大きく手を振ったりした。

でもそれだけだ。

立ち止まって話したりもしない。

お互いのやっていることに集中している中のほんの一瞬のふれあい。

 

どこの誰かも知らない。

ただ、すれ違いざまに挨拶を交わす。

瞳や微笑み、真剣さ、余裕…。

それでいいのだ。

夏が過ぎ、秋風が街を吹き抜けて行っても、私は変わらず走っているだろう。

 

ー最近、自由になったね。

ランニング仲間に言われる。

 

私は笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Today's Schedule
2026.09.01 Tuesday