2026年5月のクレープストーリー (毎水曜更新)
チョコレートな夜
第一話
「今夜はすき焼きにしようか」
電話口の向こうから一樹が提案する。
「いいわね…何時にする?」
「いつだって君はダメとは言わないけれど、君が食べたいものはないの?」
「あなたと食事をする時はなんだって良いのよ。だって話しに熱中してしまうから、食べたものの味なんて覚えてやしないわ」
そういうと彼が声を上げて笑う。
受話器の向こうからでも私の周りの空気を明るくさせる笑い声。
私は、今夜彼に会うのが待ち遠しくなる。
彼とは3年になる。
彼と言ってもステディな間柄ではない。
彼も私もパティシエで、同業者の集まりで会ったのが始まりだった。
同業なのに、彼は全く仕事の話はしない。
それは今でも変わらない。
これからも変わらない。
「今度チョコレートの新作を考えているんだ。」
「そう、素敵ね。」
私はそれだけ返す。
ーー余計なアドバイスなんて彼には必要ない。
もうとっくに完成形が見えているはずだわ。
ーどんなスイーツができるのだろう?
そう考える。
艶々のビターチョコを全身に纏ったザッハトルテ?
それともふんわり空気をたくさん含んだチョコレートムースかしら?
様々なチョコレートのスイーツを連想しながら彼をそっと見る。
ふと、思う。
ーーチョコレートアイスのような人だわ。
ビターだけど甘さもしっかりある。
どこかミステリアスだけれど、食べると幸せで楽しい気持ちが込み上げてくる。
そんな空想に耽って彼を見つめていると、視線に気がつき彼が顔を上げた。
前髪がかかって影になった瞳に少しだけ色気が滲む。
芳醇なカカオの香りが脳裏に立ち上った。
第二話
午後のアトリエは溢れる日差しに全てのものが輝いて見えた。
はっきり言えば厨房だが私はスイーツ作りも創作だと思っているのであえてアトリエと呼んでいる。
私はほぼ個人で店をやっているので厨房自体もさほど広さは必要ない。
しかしその環境にだけは拘りたかった。
床はブラシをかけられるようにタイル張りにし、排水設備をしっかり作った。
シンクは大きいボウルも洗えるサイズにし、コンロは火力も十分な業務用の4つ口コンロが備え付けてある。
オーブンも大きなものが2台。
冷蔵庫は業務用が2台設置されていた。
一番こだわったのが採光だった。
普通、厨房は温度の上昇を防ぐため、窓がなかったり、地下に作ったりすることが多い。
しかし私はそこでは創造的になれない気がしていた。
溢れる自然光の中で思い切り創作をすることが私の幸せな時間だった。
チョコレートアイスを二種類、冷凍庫から取り出しそれぞれグラスに盛り付ける。
私はワインのテイスティングをするように神経を集中させてそれぞれのアイスを口に運ぶ。
アイスには含有されている乳脂肪分の量の違いで呼称が分かれている。
乳脂肪分が15%以上のものを「アイスクリーム」
3%以上のものを「ラクトアイス」と呼ぶ。
一つ目はチョコレートの「アイスクリーム」
上品でまろやかな風味が口いっぱいに広がる。
しかし濃厚すぎないのはチョコレートの濃厚さとのバランスを考えてのことだろう。
どこまでも品のある甘さが、アイスクリームを食べている幸せをずっと感じさせてくれる。
もう一方は「ラクトアイス」のチョコレート。
さっぱりしているがどこまでも飽きのこない濃厚さに驚く。
ラクトアイスのさっぱり感をチョコレートの濃厚さが覆い被さりどこまで食べてもその野生味が崩れない。
アイスは「アイスクリーム」に限ると思いがちだった私に新たな発見であり非常に興味をそそられる。
私は先日出会った若いパティシエを思い出していた。
そのパティシエは私よりも5つ年下で、たまたま顔を出した清澄白河のワインバーで知り合った。
私が店に入ると、カウンターの一番端で白ワインを飲んでいた。
私は無意識だが、吸い寄せられるように彼から二つ開けたスツールに座った。
私はボルドーをオーダーし、グラスを見つめながら忙しかった今日を振り返っていた。
すると視界の隅に彼がワイングラスを照明に透かしたり、一口飲んでは何か考え込んでいる様子を見せた。
そして時々ノートにペンを走らせてはまた同じことを繰り返す。
気になってカウンター後ろの鏡に映る彼の姿を盗み見る。
短髪で細身、背は多分180cm少しくらい。
デニムジーンズに白いTシャツ。
その上に革のライダーズジャケットを着ていた。
ーワインバーっぽくない子だわ…
そう思ってワイングラスを持ち上げた瞬間、彼の手にしていた小さなノートが私の手元に滑ってきた。
「すみません!」
そういうと彼が慌ててスツールを降り、私のところへノートを取りに来た。
ノートが滑り込んできた瞬間見るとわなしに目に飛び込んできた文字。
ー白ワイン、ゼリー、マスカット…
その瞬間、閃く
ー彼は同業だわ…
第三話
彼がノートを取るためにスツールを降りる。
私は手元のノートを手に取り彼に手渡す。
彼の指先が私の手に触れる。
その感触に彼の指をよく見た。
彼の指は荒れていた。
水仕事をよくする指先。
確信して彼に直接尋ねる。
「あなたパティシエね」
彼が驚いたように私を見る。
「どうして…?そうです。パティシエです。と言ってもまだ見習いですけど。」
どうりで。
見習いなら洗い物や下拵えなど指先は酷使するだろう。
そして、どれだけ鍛錬を積んでいるかもわかる。
「私も同業だからよ。手を見てなんとなくね…」
私はノートの中身がチラッと見えたことは言わなかった。
彼は私の隣のスツールに座り直し、私たちは語り合った。
偶然隣り合った同業者はかえって気楽に話ができる。
そして、彼の修行の話は自分の頃の事と重ねて、置き忘れていた初心を思い出させてくれた。
別れ際、彼と連絡先を交換した。
彼は、純という名前だった。
日曜日。
土曜の夜から降り出した雨は夜明け前に止み、庭の緑は瑞々しい光に包まれてキラキラしていた。
私は一樹とのランチへ出かける支度をする。
待ち合わせまではまだ時間があるが、こんなに美しい朝に家でモタモタしているのは勿体無い。
待ち合わせは恵比寿だったので中目黒にでも寄ろうか…?
早めに行ってまだ人出の少ない目黒川沿いのカフェで紅茶を飲みたい。
青葉の隙間から注ぐ木漏れ日が綺麗だろう。
私はワクワクして急いで支度をした。
桜の季節にはごった返す目黒川沿いもそれ以外は混雑することもなく平和な時が流れている。
桜だけでなく新緑も美しい。
私は、桜の景色だけでなく、その街ごと好きになれば四季折々楽しめるのにと思う。
目黒界隈から中目黒、そして恵比寿、広尾。
私は時間がある時はできるだけ歩きや自転車で周る。
電車より便がいいということもあるが街が持つ空気感と季節感がとても好きだった。
待ち合わせ一時間前。
私は歩いて駒沢通りを恵比寿まで歩く。
ゆるい坂を登ってゆくと恵比寿ガーデンプレイスが見える。
一樹とは裏庭にテーブル席のある店で待ち合わせした。
ここなら広場から少し外れてゆっくりとランチを楽しめる。
店に着くと一樹はすでに庭のテーブルについていて私を待っていた。
「ごめんなさい。あまり気持ちのいい朝だったものだから、中目黒から歩いてしまったわ」
「いいや、時間通りだよ。リフレッシュできたかい?」
彼が尊大な微笑みを浮かべて私をエスコートする。
ゆったり時間をかけてランチを堪能し最後のドルチェが運ばれてくる直前、厨房から怒声が聞こえてきた。
「何やってる!早く持っていけ!お客様が待ってるだろう!」
一樹と私は顔を見合わせる。
私たちの時代には当たり前だったこんな光景も、今の時代では絶滅したと思っていたが…。
ーかわいそうに。
いくら私たちの頃では当たり前だったとしてもやはりスタッフがどやされているのは忍びない。
多分、一樹も同じ事を考えていたのだろう。
少し二人の空気が重くなった。
しばらくしてテーブルにドルチェが運ばれてきた。
ーさっき怒鳴られていたパティシエかしら…。
居た堪れず瞳を落としたままサーブされるのを見ている。
しかし予想外にキビキビした動作で皿を二人の前に置いた。
そして、
「本日のドルチェでございます!」
としっかりした口調で説明している。
あれだけ怒られても堂々と仕事をこなしている。
ーずいぶん肝の座ったパティシエね。
と感心して顔を上げる。
純だった。
ー純!どうしたの?こんなところで!
内心びっくりしたが顔には出さず余裕を演出した。
「こんにちは。ここで働いていたのね。」
すると純が私の顔を見た。
「あーっ!先日の…。この前はありがとうございました!」
と深々とお辞儀をした。
「そうなんです。ここで見習いをしています。このドルチェ、俺が作ったんです!」
「そうなのね。十分、味合わせていただくわ」
そう言って、下がり際
「連…」
そこまで言い、少し迷ったそぶりを見せながらもう一度お辞儀をして下がっていった。
「知り合い?」
一樹が尋ねる。
「ええ、先日ワインバーで。彼がパティシエだというものだから話が弾んだのよ。」
それを聞きながら一樹が私をじっと見つめている。
私は視線を無視しドルチェにスプーンを入れる。
爽やかなフランボワーズの酸味が口に広がる。
かと思うと酸味のあとを追うように、カスタードの優しい甘みが後を追う。
フランボワーズとカスタードなんて変わった組み合わせね。でもバランスが取れていいハーモニーだわ。」
私がドルチェに夢中になっていると一樹がスプーンを口へ運ぶ。
「見習いと言ったけどなかなかじゃないか。温度管理や裏漉しを丁寧にしないとこの滑らかさは出せないよ。だから時間がかかっていたのかもしれないね。」
「とても美味しいけれど、お客様を待たせるようじゃやっぱりまだ見習いなんだろうな」
一樹はパティシエとして優秀だけれど、どこか自分が絶対だと思う節がある。
それは時に自分の自信のなさを強調していることに気がつかない。
私たちが今のところ上手くやってこられたのは、お互いの仕事について知ろうとしてこなかったからだ。
私というより一樹は特に仕事の話はしなかった。
暗黙のうちに私たちの間で仕事の話はタブーとされてきた。
ランチの後、青空が気持ちよかったので、広尾まで二人で歩くことにした。
「君が仕事の話を誰かとするなんて珍しいね。」
一樹が言う。
ーそうじゃないわ。あなたとしないだけよ。
内心そう思いながら
「意外?そうかもしれないわね。仕事以外で仕事のことを考えるのはホリック寸前よ。」
一樹は視線を落としながら私に聞く。
「僕たちもしようか?」
「えっ?…よしてよ。私たちは仕事抜きで楽しみたいわ。今までだってそうじゃない?」
「そうだけど…。なんだか…」
そう言って一樹は口ごもった。
一瞬、季節が戻ったような冷えた風が吹き抜ける。
見上げた青空がやけに寂しく透き通って見えた。
第五話
純と偶然会ったあの日から一樹と私の間の空気が少し変わった。
会っていてもどこか心ここに在らずで、一樹は物思いに耽ることが増えた。
絶やすことのなかった笑顔、その笑顔がどこか作り物のように思える時がある。
何がそう感じさせるのか考えたこともあったが、私においてはそれほど気にすることでもなく、
そういう時もあるだろうくらいに思っていた。
そのうち私の仕事が忙しくなりしばらく会う間隔が開いた。
一樹からは特にLINEなど入ることもなかったので私は仕事に集中していた。
仕事が一段落して、久しぶりに食事に行こうと一樹にLINEを入れる。
私は仕事に戻り、気がつけばすっかり夜も深まった頃LINEの通知が鳴った。
ー一樹からだった。
ーちょっと忙しいからまた今度にしよう。
それならば仕方がないと「了解」とメッセージを送信する。
すると数分もしないうちに一樹からLINEが来ていた。
ーなんとかするよ。君から誘うなんて会いたいってことだろう?
私は半ば呆れながらメッセージを見ていた。
ー一樹。こんな人だったかしら?会いたいとか会いたくないとかそんなポジションにお互い存在しないはずではなかったか…。
私は、軽めに返信する。
ーいいのよ。たまたま時間が空いただけだから。気にしないで。忙しいのはお互い様よ。
するとすぐに返信がある。
ー彼?
すぐにピンときた。
スルーすることもできたが、余計に詮索されそうなので当たり障りなく
ー彼って誰よ?
と送った。
しばらくして
ーいや、なんでもない…おやすみ。
とだけ送られてきた。
まさかね…。
見えない鎖が私の周りに浮かんで、今にも縛り上げられそうな気がした。
私は慌てて思考を変えた。
明日の仕込みをしている頃、純からラインが入っていた。
ー新作の味見をしてもらえませんか?
純は今度の新作で認められれば正式に店のパティシエに昇格できることになっていた。
ーいいわよ。今夜、店に伺うわ。
純とは時々連絡を取るようになっていた。
純は一樹とは真逆で四六時中仕事のことを考えている男だった。
新しい食材を見つけては何に合うか考えを巡らせたし、知らなかった味に出会うとその中身を知りたがった。
私も純の真摯な姿勢に感化され新作をどんどん生み出した。
そのくせ、純は、恋愛感情や余計な絆は感じない稀有な存在だった。
ひたすらにお互いを刺激し合う仲。
それは体で結ばれているより興味深く、底なしの探究心が掘っても掘っても尽きない関係だった。
店が終わり片付けを済ますと21時を回った頃だった。
純の店は21時半にクローズする。
今から向かえば22時過ぎには着くだろう。
あまり早いと他のスタッフも残っているかもしれないので私は時間稼ぎのために徒歩で向かう。
雨上がりの街は街路樹がみずみずしく輝き、消え残る雨の粒子が水銀燈にキラキラ漂っていた。
ー美しすぎる。
私は雨上がりの街の美しさに嘆息をつく。
ー幸せだ。
なんとなく思い浮かんだ。
こんなに目に映るものが美しく見えるわけがなんとなくわかる。
私は満ち足りていた。
若い頃は私を心底満たすものは恋愛だと信じて疑わなかった。
だから時に激しく、時に穏やかに人を愛してきた。
けれどそれだけでは完成されない。
恋は相手があってのこと。
そしてその全てがうまく運ぶとは限らなかった。
ー自分を幸せにするもの。
それは自分自身で自分の機嫌を取ることができること。
人に左右されない自由の手綱を自分でしっかり操れることだった。
純も私もお互いのミッションをしっかり遂行しながら、それでもなお、お互いを刺激し合い、尊敬しあえる。
こんなにスリリングで幸せなことはなかった。
恵比寿駅前の交差点で信号待ちをしていると着信が鳴った。
一樹だった。
私は着信ボタンを押すとスマホを耳に当てた。
ー……。
無言が続く。
ーどうしたの?
すると一樹が妙に明るい声でいう。
ーこの前はごめん!やっと時間が空いたんだ。今夜、食事でも行こうよ。
ーごめんなさい。今夜は先約があるのよ。
ーちょっとくらいいいじゃないか。少しでも君に会いたいんだ。
どうしたのかしら?今までこんなこと言うことはなかったのに。
一樹らしくない。
ー本当にごめんなさい。今夜は外せないのよ。
無言のままのスマホに耳を澄ませていると、交差点でタクシーがクラクションを鳴らし運転手が通行人に「馬鹿野郎!」と怒鳴っている。
するとわずかな時差でスマホからもクラクションと怒声が聞こえてきた。
!!ー一樹、あなた今、どこにいるの?
to be continue…
